命題1-1
与えられた有限な直線(線分)の上に等辺三角形を作ること。
概要
記念すべき『原論』最初の命題である。
本命題ではまず、線分ΑΒが与えられる。その上に等辺三角形を作図せねばならない。言い換えると、線分ΑΒを一辺とする正三角形を作図する命題である。上の図でいうと、三角形ΑΒΓが求められている図形である。
作図
証明
以上で作図できていることを証明する。
点Αは円ΓΔΒの中心であるから、線分ΑΓは線分ΑΒに等しい[定義1-15]。また点Βは円ΓΑΕの中心であるから、線分ΒΓは線分ΒΑに等しい[定義1-15]。したがって、二線分ΑΓ、ΒΓはともに線分ΑΒに等しい。同じものに等しいものは互いに等しいので[公理1]、線分ΓΑも線分ΓΒに等しい。
よって、三線分ΓΑ、ΑΒ、ΒΓは互いに等しいので、三角形ΑΒΓは等辺である。しかも線分ΑΒの上に描かれている。これが作図すべきものであった。
ギリシャ語解説
上述の「作図」では、作図の手順が受け身(受動態)で書かれている。しかも「描かれたとせよ」なので、完了の受動態の命令形である。日本語で作図手順を書くときはまずこんなことはしない。これは『原論』によく見られる表現である。
本命題の原文は下記の通り。
᾿Επὶ τῆς δοθείσης εὐθείας πεπερασμένης τρίγωνον ἰσόπλευρον συστήσασθαι.
それぞれの単語の意味は以下の通りだ。
三語目の δοθείσης は、動詞 δίδωμι「与える」の受動態・アオリスト分詞である。アオリストとは時制の一種で、過去のある一点で起きた出来事を表す。つまり、「過去のある瞬間に与えられた」という意味合いになる。これを分詞にして、形容詞のように名詞 εὐθείας を修飾している。δίδωμι と δοθείσης では全然形が違うじゃないか、と思うかもしれないが、古典ギリシャ語の活用はこれが平常運転である。なお上の図にも書いてあるが、δοθείσης の後半 -θείσης が活用語尾であり、語幹は δο- だけである。これは δίδωμι の -δω- が短母音化したものである。
さらにその後ろの πεπερασμένης もまた分詞で、もとは動詞 περαίνω「限る、終える」である。これの受動態・現在完了分詞であり、εὐθείας πεπερασμένης で「現在すでに限られた直線」=有限直線の意味になる。
最後の συστήσασθαι は、動詞 συνίστημι「(線分などをあわせて)角を作る」の中動態・アオリスト不定詞で、「角を作ること」の意味になる。中動態とは、能動態と受動態の間の態で、自分(たち)に対して何かをすることを意味する。なお、συνίστημι の本来の意味は「二つのものをひとつにくっつける」「団結する」などである。これが、『原論』では「線分を作る」「角を作る」「三角形を作る」などの意味で使われる。
以上から、直訳すると「与えられた有限の直線の上で、等辺な三角形が作られること」といった意味になる。
感想・独自研究
作図、証明とも、非常にシンプルである。中学生でも容易に理解できるだろう。
この証明は
ΑΓ=ΑΒかつΒΓ=ΑΒ
∴ΑΓ=ΒΓ
という証明である。この「∴」の部分に公理1が使われている。公理1は「同じものに等しいものは互いに等しい」という公理であった。「同じもの(ΑΒ)に等しいもの(ΑΓ、ΒΓ)は互いに等しい(ΑΓ=ΒΓ)」と言っているわけだ。
たまに「(『原論』の)公理は方程式の性質を表す」などと説明されることもあるが、この証明を読む限り決してそんなことはない。この証明では公理を図形に適用しているからである。
この作図において、二円ΒΓΔ、ΑΓΕが必ず交点を持つことが暗黙の前提として使われている。
現代数学の立場から、このことに対して批判する向きもあるようだ。つまり、二円ΒΓΔ、ΑΓΔが交点を持つことを証明する必要があるのではないか、ということである。この指摘は妥当だと思うが、古代ギリシャの数学においては、これは自明のものとして扱うのが普通だったのだろう。
ただ、これに反論することも可能だと思う。上述の「ギリシャ語解説」でも触れたが、作図方法を示しているこの文章は、完了形で書かれているだ。
つまり「このように描け」と言っているのではなく、「このように描かれたものとせよ」と言っているのである。したがって、「交点を持つとは限らないのではないか」という指摘は、「ここでは交点を持った場合のみを考えている」と反論できるのである。

